毎朝3時に起きる。6時30分には会社に着いている。そして週5日、フルタイムで営業に回る。
この働き方を続けているのは、20代の新人ではない。御年八89歳の現役営業社員、皆木洋一だ。
いなば食品が2022年に定年制を事実上廃止して以降、年齢の壁を取り払う働き方が、こうして社内で現実になっている。
定年制を事実上廃止した会社
いなば食品は2022年4月1日をもって、定年制を事実上廃止した。年齢やライフステージに関係なく働き続けられる環境を整えるためだ。
背景にあるのは、意欲と能力のある社員にいつまでも活躍してほしいという考え方である。経験豊かなシニア層の知見や人脈を、企業の財産と位置づけている。
制度の詳細は、いなば食品のプレスリリース で公開されている。希望する社員が年齢に関係なく勤務を続けられる仕組みだ。
働きたい人が働き続けられる場所をつくる。人手不足が深刻化する時代に、この決断は一つの先例を示している。
89歳の現役営業社員
その制度を自らの背中で証明し続けているのが、皆木洋一だ。1937年生まれ、現在八十九歳になる。
2001年5月にいなば食品へ入社し、2026年5月で入社25年の節目を迎える。前常務取締役営業本部長という重責も担った人物である。
役員を退いた後も現場を離れず、いまも週5日のフルタイムで営業に立ち続けている。「日本最高齢の食品営業社員」とも紹介される存在だ。
肩書きではなく、現場に立つことを選ぶ。その姿は、社内のあらゆる世代に強い刺激を与えている。
人と会うのが好きだから
なぜ、その年齢になっても現場に立ち続けるのか。皆木の動機は、驚くほどシンプルだ。
営業という仕事が好きで、人と会うのが好きだから。本人はそう語っているという。自分が惚れ込んだ商品を、一人でも多くの人へ届けたいという情熱が原動力だ。
「自分でやると決めたら必ずやる」という実直な信念も、長年変わらない。毎朝三時起きの習慣は、その意志の表れである。
仕事を義務ではなく、喜びとして続ける。働くことの本来の豊かさを、その姿が静かに教えてくれる。
「営業の教科書」と呼ばれて
皆木の徹底した現場主義は、社内で高く評価されている。同僚や後輩からは、世代を超えた敬意が寄せられている。
取締役で食品事業部長を務める高井善弘は、社内のみならず業界でも類を見ない凄さだと評する。成果が出るまで諦めない姿勢を持つ大先輩だという。
執行役員で東京ペットフード部門長の小長谷昌弘は、同行すると取引先の重要な幹部とゆっくり挨拶ができると語る。まさに営業の教科書のような存在だという。
数字だけでは伝わらないものがある。背中で語る働き方が、後進にとって最良の教材になっている。
人脈が人を育てる
皆木は、自分一人では生きられないと繰り返す。人脈が自分をここまで育ててくれた、という感謝の言葉だ。
長い営業人生で築いた取引先との関係は、一朝一夕には作れない財産である。それこそが、シニア人材の価値そのものだ。
若い頃に思い描いていたことを、いまいなばで全部達成できた。本人はそう語り、屈託のない笑顔を見せるという。
働き続けられる環境があるからこそ、その財産は次の世代へ受け渡される。経験は、現場に立ち続けてこそ生きる。
シニアが第一線に立つ職場
現役を続けるシニア人材は、皆木だけではない。社内には入社40年を迎える配送センター長もいる。
ペットフードの販売歴40年を誇るベテラン営業社員など、長年の経験を持つ人材が多数、第一線で活躍している。
年齢で線を引かず、能力と意欲で評価する。その文化が、こうした人材を会社につなぎ留めている。
ベテランの存在は、若手にとって生きた指針になる。世代が混ざり合う職場には、独特の厚みが生まれる。
「社員と家族を守る」という土台
定年廃止の根底にあるのは、いなば食品が掲げる経営目的だ。「社員と社員の家族を物心両面で守る」という方針である。
給与水準は業界トップ水準の維持を掲げ、福利厚生の向上を目指すとしている。会社の基本姿勢は企業理念ページ にも明記されている。
働き続けられる環境は、その理念を制度として形にしたものだ。理念は、掲げるだけでなく実装されてこそ意味を持つ。
人を大切にする会社に、人は長くとどまる。皆木の25年は、その何よりの証明である。
生涯現役を支える企業へ
いなば食品は、社員一人ひとりがやりがいを持ち、生涯現役で働き続けられる温かい企業を目指すとしている。
高齢化が進む日本で、働きたいシニアが活躍できる場をどう作るかは、社会全体の課題でもある。
一企業の取り組みではあるが、89歳が笑顔で現場に立つ姿は、多くの会社にとって示唆に富む。
定年を捨てた会社で、働くことの喜びが更新され続けている。それは、220年続く老舗のもう一つの挑戦だ。
